心理的安全性はとても重要なことですが、真逆に理解されていることが多くあります。心理的安全性とはヌルい職場と真逆なのですが、なぜか仲良しクラブのようなヌルい職場と解釈する人が多いようです。ヌルい職場とは、他人との摩擦を恐れるがあまり、誰も率直な意見を言わず、なにか問題があると気がついていても自分から行動しない環境です。以前に次の記事で遠慮について記載しましたが、ヌルい職場とは悪い意味での遠慮が蔓延しています。
心理的安全性とは、チームの成功のために何か行動したことによって罰せられることがないというチームに共有された信念です。例えば、チームが間違った方向に行こうとしているときに、「それは間違っていると思う」と発言しても、誰からも非難されたり、いじわるをされることが無いということです。上記の攻めと守りの遠慮でいうところの、攻めの遠慮を安心して行える環境を心理的安全性があると言います。チームの成功のための言動なのに、それに対して非難やいじわるされる事なんてあるのかと思える人は幸せです。足を引っ張るってことですからね。実際、私の経験では少なからず、、いや沢山あります。
心理的安全性が無い状況とは、つまりチームの成功のための言動を非難やいじわるで報いるということです。これは次のような心理作用によって生み出されます。例えば、仕事をしていて誰かに何か間違いを指摘されたとします。間違いを指摘されたことで、無知だと思われた、無能だと思われた、邪魔だと思われた、否定をされたと感じてしまうとします。そして感じただけでなく、指摘した相手に「そんな言い方はおかしい」とか「私の仕事に口を出すな」と感情的に反応してしまうと、チームの成功のために指摘したことが悪者にされてしまいます。指摘の内容が間違っているかどうかを話し合えばいいのに、指摘すること自体を非難しては次からは誰も発言しなくなります。この次から誰も発言しなくなる雰囲気こそが心理的安全性が脅かされた状態です。本来、他人の仕事に意見することは、自分の時間を割いて相手のためを思った行為であり、事前に問題を回避できる可能性を生み出し、違う意見を重ね合わせて新しい価値を作り出すクリエイティブなことなのに。仕事におけるお節介っていいことです。
つい先日も、元々5000万円で作ったプロダクトを誰かが1000万円以下で作れるといったので、「いや、それは無理でしょう」と言ったら、その人が「最初から否定するな!」と怒り始めたということがありました。この話しは出来るか出来ないかが論点である間は健全な議論です。ただ、その誰かが自分が否定されたと感じたところから論点がズレ始めます。こういった反応をする相手と話しをするときは否定的な意見は述べられず、私の心理的安全性が脅かされます。でも、ご安心ください。私は心理的安全性が脅かされたとしても、自分の意見は誰に対しても自由に言います。また、誰かから意見を言われたとしても、言われたこと自体には感謝しかなく、腹を立てるという感覚はわかりません。
つまり、心理的安全性というのは基本的に受け取り方の問題です。率直な意見を言われたときに、無知だと思われた、それを無能だと思われた、邪魔だと思われた、否定をされたと感じてしまう受け取り側の心の問題です。言うなれば被害者意識です。もちろん、言い方の問題も多少はあるとは思います。本当に申し訳無さそうに伝えることで受け取り側の被害者意識を軽減することはできますが、基本的には受け取り側の問題なので完全に防ぐことはできません。
もちろん、ハラスメントは駄目です。ハラスメントをするということは権限や立場を利用して、相手に意見を言う自由を抑圧するからです。権限や立場に関係なく、自由に意見を言い合えることが大事です。
心理的安全性が受け取り側の心の問題だとすれば、心理的安全性を外的方法で作ることは非常に困難だと思います。特に日本のような同調圧力が強く、馴れ合いの仲間意識が強い社会では困難を増します。最近では心理的安全性に関する書籍なども多く出版され、心理的安全性を高めるためのプラクティスが紹介されています。「ありがとう」と感謝を伝えるとか、「おはよう」と挨拶をするとか、職場で役職を呼ばずに「〇〇さん」と呼ぶとか。どれも一定の効果はあるので、実践することはとても良いと思いますが、本質的な解決にはならないでしょう。なぜなら、心理的安全性を脅かす被害者意識がある人の問題は、自己肯定感の低さが原因だからです。そして、自己肯定感の低さは外的方法では解決しません。
自己肯定感は高ければ良いことだと言えるのか。低いことが必ずしも悪いのか
次の本は読んでみましたが良いと思いました。ただ、タイトルが心理的安全性のつくりかたということで、心理的安全性を作るというアプローチであることが気になりました。実際に読んでみるとプラクティスだけでなく人間の内面にも言及されていて良い本だと思います。アジャイル開発もプラクティス偏重になると、ネタとしては面白いのですが、本質からは遠ざかっているのと同じように、心理的安全性もプラクティスにばかり目が向くと本質を見失う可能性があります。
人は誰でも傷つきたくありません。自己肯定感が低い人は特にそうです。つまり、意見を言われたことで、無知だと思われた、無能だと思われた、邪魔だと思われた、否定をされたと感じたくはないので、お互いに(否定的な)意見を言わないでおこうねという同調圧力を集団で作り出すという一種の談合やカルテルなのです。これによって、その組織における心理的安全性が失われてしまいます。そして、その組織や社会からイノベーションが生まれなくなるのです。
心理的安全性というものを作り出せると考えていると、本当の原因である自己肯定感の低さまで考慮した対策にならないので、どうしても表面的になり、効果が出ないこともあります。ただ、繰り返しになりますが、自己肯定感の低さを高めるための銀の弾丸はありません。もともと、ポテンシャルがある人ならきっかけを与えるだけで数ヶ月で覚醒することもあります。ただ、そのように覚醒するのは稀なこと。少なくとも業務や仕事の都合のいいタイミングで覚醒するものではありません。
自己肯定感に根ざした本当の心理的安全性を簡単に作れないとすれば、どのようにチームビルディングをするのでしょうか。大事なのは自己肯定感と同じような内発的な動機付けです。具体的には目標の共有と、好きな仕事をすることです。
心理的安全性を高める方法の1つ目は、目標自体は会社や顧客などの外から与えられるものですが、その目標に共感すれば内発的な動機になります。チームビルディングで目標設定を大事にするのはこの理由からです。そして目標があれば頑張れるのも人間です。「いや、目標を達成するためには、それは無理でしょう」と言われれば受け取り側も多少は傷つきにくくなります。被害者意識になるということは、理性で考えるというよりも、意見を言われたので不安になり、感情的に考えているということです。共通の目標があれば目線が個人ではなく組織に上がります。組織の目線で意見をされても、個人的な感情で反応することはなくなります。
そして、心理的安全性を高める方法の2つ目は、好きな仕事をすることです。好きな仕事は趣味を仕事にするということでもなければ、好き勝手な仕事でもありません。好きな仕事を一言でいうのは難しいのですが、毎日仕事としてやっても楽しいことって人それぞれあるかと思います。ものを作るのが好きな人は電気自動車を作るとか、データを分析するのが好きな人はマーケティングやデータアナリストをするとか、なにかを表現するのが好きな人はライターやクリエイティブに携わるとか。結局、仕事に対する熱量が少しでも高ければ、自分から高いレベルの仕事を目指すようになるので、他人から意見されても多少は傷つきにくくなります。好きな仕事の見つけ方を補足すると、子供のときに何に夢中になったかを思い出してみてください。友達との付き合い程度の夢中ではなく、晩ごはんも食べずにやっていたことです。ラジコンやプラモデルを作っていた子供はモノづくり、野球やサッカーなどの団体スポーツに夢中になっていた子供は人間との関わり、自分で昆虫の標本を作ったり望遠鏡で星空を見ていた子供は学者とか、子供のときの原体験に根ざしたところにその人の好きがあるように思います。チームビルディングにあたっては、メンバーと1on1などをしながら、そのメンバーが何をやりたいかを聞いて、やりたい理由が原体験に近いようであれば、そういった仕事を任せることで力を発揮する可能性は高いと思います。
このように心理的安全性とは、他人の意見に対する受け取り側の問題であり、受け取り側の自己肯定感が低ければ無知だと思われた、無能だと思われた、邪魔だと思われた、否定をされたと感じてしまうというものです。そして、自己肯定感を急に高めることは出来ないので、代わりに目標の共有や好きな仕事を任せることで内発的な動機づけを行います。ただ、こういった対策を行ったとしても、その時点でのチームや個々のメンバーの心理的安全性の高さには限界があります。その限界を超えた期待をしてはいけません。幾ら仕事でも無理なものは無理です。無理を期待するとチームやメンバーが壊れてしまいます。
心理的安全性はメンバーの自己肯定感が根本にありますが、人間関係によっても変化します。よって、メンバーの組み合わせを考えてチーム全体の心理的安全性が高まるようにチーム編成します。そうやって編成したチームの心理的安全性のレベルによって、どれくらいのチャレンジができるかを判断して、どの仕事を任せるかを決めます。とはいえ、必ずしもチームのレベルとその時にある仕事のレベルが合致しないもどかしさは、マネージャーを経験したことがある方には分かって頂けるかと思います。
コメント
コメント一覧 (2件)
環境の良し悪しを、心理的安全やぬるいという表現で判断したり、そういった話の中に矛盾や疑問を感じることはとても多かったのでニュアンスではなくて道理としてとても大事な視点を感じながらも、 私も実際にあった過去のあらゆる場面を思い出しました。
良かった時のチームの動きを見ると、様々な個がチームに貢献をしたい、チームで成功をしたいと思っているからこそ、遂行していると色々と感じることが自然なことであるのだと。もっとやりたいと意欲があったり、不安になったり、上手くいかなかったり、迷惑をかけたくないなど、感情とスキルによって伝える側と受け取り側の解釈が、ズレる時もあります。そのズレに気づく人もいれば、ズレていようととにかく今は前に進みたい人もいたり。人の体調に気遣う人もいたり、示す方向から軌道修正を考えだす人もいたり、時間や目標を見て情報を共有する人など。
心理的安全によってネガティブ、ポジティブでも本音として、感じる違和感など話あえる事は とても本質を軸に議論の場となるケースがあったように思います。
さらに良いのが、気づきを相手に強要せずに、分かち合い動きあっていこうとしている姿などは
摩擦を超えてクリエイティビティを生み出したそうとする、印象でありました。
特に記事にもあった
から心理的安全の派生により自ら育つようになるといいなと思いました。
一方で、摩擦の内容によってはコミュニケーションが取りにくい経験をしたことがありました。
本音や本心を伝えたつもりが、相手にはネガティブと捉えてしまい、 かつ意見を否定をされたと思う方もいると、そこからの議論や特徴ですら見出せず終わってしまうケースもありました。
まさにこの状況から、攻められたりその内容の議論になったり意見がぶつかり合っている時は生産性が低く、コントロールはしにくいですが、意思が場に出るときにこそ、熱いエネルギーだと思って話あうことも心理的安全につながる一つだったなと。
そこで乗り越えれない場合は簡単に言えば解散・編成をしたほうがいいことなんだなと読んでいて思えました。
さらにそのままにしておくと内に篭ってしまい、ミスをしなくて済む業務や情報の整理ばかりの人が増えてしまうことに陥りがちです。
まさに記事にあった報いの置き所であります。
こんな事が起こるなら関わりたくない、切磋琢磨できないということは分かり合えないと思う心理が働き、
摩擦を避けてぬるさの状況へと一気に進むからです。この心理が働くという事は、一人ではできないと分かっているのに不思議な行動ですよね。
そんな経験よりも、高め合えるチームと本質を持って目標を達成できる事は何にも変え難いやりがいであリます。
ロボットのようにだけはなりたくないなと思いました。
摩擦を乗り越えて本質に向かって達成するからこそ、人との信頼、自分の自信にもつながると思います。是非、相手の感情や表現だけで否定されたと思わずに、一つのきっかけや意見をいただけたと思い、チームの力に変えていくと、違った世界が見えるかもです♪
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