自己肯定感という言葉があります。最近、よく目にするようになりました。ただ、あまり明確な定義がないこともあり、単純に自己肯定感が高いことが良いことで、自己肯定感が低いことが悪いことのような内容も多くあります。自己肯定感と自己評価は同じなのか違うのか、自己肯定感が高いことは利己主義とは何が違うのか、自己肯定感と単なるポジティブシンキングは何が違うのかなど明確ではないことも多いです。
Wikipediaを見ると、元々は高垣忠一郎さんが1994年に提唱したとあります。次にリンクした高垣さんの2009年の講義が自己肯定感を端的に分かりやすく説明していると思います。これによれば、自己肯定感とは「自分が自分であって大丈夫」という感覚のことです。自己肯定感の対義語は自己否定(感)となります。リンク:私の心理臨床実践と「自己肯定感」
自分が自分であることは当たり前なのに大丈夫と感じるというのは、どういうことでしょうか?
「自分が自分であって大丈夫」と感じるということなので、大丈夫と感じるのは自分です。誰かに大丈夫と認めてもらっても自己肯定感を高めることは出来ません。他者からみて価値が高いとか、役に立つとか、優秀であるといった他者評価は自己肯定感とは別のものです。周りから優秀だと思われていなくても自己肯定感が高い人もいれば、周りから優秀だと思われているのに自己肯定感が低い人もいます。
日頃、周囲から評価されている人は自分は価値のある人間だと考えてしまいますが、実際には自己肯定感が低い人も多くいます。学校でいい成績を取れば先生や親から褒めてもらえます。会社で良い業績を叩き出せば上司から褒めてもらえます。こういった他者評価が高まれば自信にもなりますし、自分の能力の高さを実感できることでしょう。ただ、能力には上には上がいるもので、自分よりも優れた人に出会ったり、自分の評価が少しでも崩れると一気に自信をなくしてしまいます。もしくは過去の他者評価にしがみつこうとします。悪い意味でのプライドというものです。虚栄心といってもいいでしょう。周りからの評価を無理に高めようと自分を誇示したり、人の話を聞かずに自分の話ばかりしたり、人からの指摘を受け入れられないようになってしまいます。あなたの周りにも初手からマウントを取ってくる人っているのではないでしょうか。初手からマウントを取るのは自己肯定感が低いというガラスのハートを守るためだったりします。一方、そういう人も他者評価を改めて獲得しようとするので、そのための適切な努力をするのであればプライドが頑張るための原動力になることもあります。ただ、他人の意見を適切に聞かなくなると結果がついてこないことが多いと思います。
周りからの評価も低く自己肯定感も低い人は、常に自信がなく、周りを恐れています。過度に回りの意見や評価を気にします。従って、周りの意見に振り回されるか、周りの意見を完全にシャットダウンするかの両極端となります。仮に周りからの評価なんてどうでもいいと開き直ることができれば、開き直りによって自己肯定感を逆転させて高める可能性もあります。例えば、「自分には出来ないこともあるけど、なかには出来ることもある。出来ることをしっかりやって、出来ないことは周りの協力を得よう」と思うということです。ただ、開き直れるぐらいの勇気と自己分析があれば自己肯定感も高いはずなので、実際には開き直ることもできないことが多いようです。
自己肯定感が低いと「自分が自分であってはいけない」のではないかと感じてしまいます。自己肯定感が低いと周りからの評価を気にしすぎて不安な状態が続きます。そして最も問題なのは周りの協力を適切に得るということが難しいということが実生活に影響することです。周りから協力を得るための第一歩は周りの意見を適切に聞くということです。適切に聞くということが重要で、自己肯定感が低い人は他人の意見を全く聞かなくなるか、全部鵜呑みにするかの両極端になることが多く、これはどちらも良くありません。適切に他人の意見を聞くには、話しを素直に聞きつつも是々非々で判断することが重要です。このいい意味での話半分で聞くというバランスを取るには自己肯定感が必要です。相手の意見がどんなものでも自分がどんな意見を言っても「自分が自分であって大丈夫」と思えるので、余裕をもって相手の話しを聞けますし、自分の意見も率直に言うことが出来ます。
人は誰もが生まれながらに孤独です。生まれたばかりの赤ちゃんは自分の力では何もできず生きられません。早々に親や周りの協力を求めるために「オギャー」と泣きます。大人になっても程度の差はありながらも社会のなかで協力することで食料を取ったり災害に対応したりと生存可能性を高めます。この孤独でありながら協力が必要であること、逆に本来は協力が必要だから孤独を感じるというのが人間です。さらに、孤独であるがために自分を不完全だと感じて、他者との融合を求めます。この他者を求める気持ちの対象は異性であることも子孫を残すという意味で重要ですが、必ずしも異性に限らず同性と仲良くなって協力しあいたいということも普通にあります。ただ、この融合は成就せず永遠に満たされないことが多いというものでもあります。さらに、人は自由を愛する生き物で孤独であることを自ら求めます。この矛盾した自己の存在を受容することが自己肯定感ということになります。自己肯定感とは自らの存在への愛です。
結局、受け入れようが受け入れまいが、人間が孤独であることは変わりはありません。その孤独であるという事実を認めて、向き合うことが大事です。愛とは自らの孤独を受け入れた先にあります。誰もが孤独であり、孤独な人間同士が何かの縁で出会ったり別れたりする。その縁に感謝しつつもお互いの孤独を尊重しなければなりません。そしてこの瞬間に自分が生きていることにも感謝します。この感謝と尊重を理解するためには、自分のことを深く知り、相手のことも心から慮ることが大事です。自分や相手を知ることができるのは知性の働きなのでひとつの能力です。愛とは後天的に獲得できる能力(スキル)なのです。例えば、エーリッヒ・フロムは「愛は技術」と述べています。
先に述べたように自己肯定感とは自らの存在への愛です。自己肯定感が愛だとすれば、愛に高低がないのと同じように自己肯定感にも高低という議論に意味はありません。自己肯定感を他人と比較するものでもありません。自分にとって昨日よりも今日自分を愛してあげられるようになったかが大事です。愛を理解するには、愛を人からもらった経験があると理解が早いです。その意味では幼児期の親からの愛情の受け方が自己肯定感に影響すると言えます。ただ、愛とは能力なので後天的に獲得できます。大人になってから学ぶこともできます。同様に自己肯定感も大人になってから身に付けられます。
自己肯定感を得るには他者評価からの脱却が必要です。では、自分の生まれてきた意味はなんだろうと考えても答えは見つかりません。人が生まれてきたことに意味があるとしても死ぬときにしかわからないと思います。他者評価でもなく、自分が生まれてきた意味も分からないなかで、どうやって自分というものを知り得て、さらに自分を肯定できるのかが問題です。これも自己肯定感が愛だということです。愛とは善悪でも優劣でもなく、存在そのものを受け入れて許して癒すものなのです。自分に意味が有ろうと無かろうと構わない。自分は今この瞬間に生きている。親鸞の悪人正機に通じます。
自分という存在が、他者評価のなかにもなく、自分に生まれてきた意味もないとすると、これは深淵な絶望です。その絶望にこそ愛を見つけて自己肯定するということです。自己肯定感とは、表面的なポジティブシンキングとは根本的に違うものです。また、愛から生まれた自己肯定感が利己主義と無縁であることも言うまでもないことです。
自己肯定感とは「自分が自分であって大丈夫」と感じられることです。その根本には自分の存在への愛があること、自分の孤独を受け入れて癒すそうとする優しさがあります。明石家さんまさんが「生きているだけで丸儲け」と言っていますが、究極の自己肯定感だと思います。
コメント
コメント一覧 (5件)
うんうん、と頷きながら読んでしまいました。
過去、自己肯定感について考えることがしばしばありましたが、家族に支えられたことが何度かありました。愛との繋がりは同感です。
そもそも我々は何のために仕事をしているのか?
表面的な付き合いが多い世の中ですが、人を見極めること(必ず自身のものさしで)は職場の人間・お客さま、両面で非常に大事だなと感じています。抽象的にはなりますが、幼少期にあった「あの子と遊びたい・遊びたくない」という感覚は今でもとても大事だなと思っています。
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[…] 自己肯定感が低い人は、自分をそのまま受け入れられないので疑心暗鬼に陥りやすいかもしれません。 […]
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