最近、多くの示唆に富む面白い経験をしました。
知り合いに誘われて何人かでの会食に参加したのですが、そこにAさんがいました。Aさんと会うのははじめてですが、以前に一度だけリモートで打ち合わせをしたことがありました。会食がはじまるとAさんの様子がおかしく、なにか視線を避けるというか、壁を感じました。なにか私が失礼なことでもしたかと思いましたが、会食の途中でM&Aの人はキライといった意味の発言がありましたが、私はM&Aの人ではありません。確かに、以前のリモートでの打ち合わせのテーマはとある会社のM&A(経営再建)でした。
ひとは第一印象できまる
私はM&Aが専門ではありません。もともとはITエンジニアで、最近はDXだけでなく、マーケティングやコンタクトセンターといったカスタマーエクスペリエンスに関することも企業に支援することがあります。
たまたま、知り合いの知り合いの会社が経営課題をかかえていて、その経営再建に支援しようかどうかという話がありました。そこで、Aさんも含めて経営再建についてリモートで打ち合わせをしました。そのときの打ち合わせのテーマがM&Aなので、私はすっかりM&Aの人というイメージになったようです。もちろん、普通にITエンジニアとして自己紹介をしました。
ITエンジニア出身としては、すっかり金の匂いがするようになったのかと悲しい思いもありつつ、ファーストインプレッションの恐ろしさを肌で実感しました。単にM&Aの打ち合わせに居合わせたというだけで、M&Aの人というレッテルが貼られたのです。仮に、営業会議に出席していればセールスの人だと思われたり、宣伝会議に出席していればプロモーターだと思われるのかもしれません。
人間は、相手がどういった人間なのかよりも、どのコミュニティ(場)に所属するかで他人をラベリング(分類)しているのかもしれません。例えば、学校にジャージを着た大人がいれば先生、ホテルで黒いスーツを来ていればホテルマン、両国国技館に大きな体格の男性がいれば相撲取り、ラーメン屋でタオルを頭に巻いていればラーメン店長、テレビで日本経済について語っていれば経済学者か大学教授だと思うのです。実際には全く違うキャリアの人だとしても思い込むのです。しかも、この刷り込みは回数を重ねるほど、(勝手に)強化されていきます。学校の参観日に行く度にあうジャージの大人がいれば間違いなく先生だと思うでしょう。それが、息子の同級生のお父さんであっても。
逆に、そのコミュニティ(場)を外れたところで会っても、その人が誰なのかすら思い出せないこともあります。薄っすらと会った記憶があるけど誰だか思い出せないような経験はよくあります。最初に会ったときの記憶がコミュニティ(場)と紐付いているので、その人を構成するエピソード記憶が最初に会ったときのシチュエーションに縛られているのです。
実は、このコミュニティ(場)によるラベリングはキャリアチェンジのために逆手に取ることができます。キャリアチェンジしたいときに、実際には新しいキャリアを行うための実力があったとしても、いつまでも周りからは以前からのキャリアに見られてしまうことがあります。そのような場合に、キャリアチェンジしたい新しいキャリアのコミュニティ(場)に積極的に参加すればいいのです。そうすると少しずつ新しいキャリアのイメージで見てくれる人が増えてきて、周りからの目が変わり、自分の意識も変わり、さらに仕事が舞い込むこともあるかもしれません。
例えば、ITエンジニアがマーケターにキャリアチェンジしたいときは、マーケティングの会議やプロジェクトがあれば多少強引にでも積極的に参加します。マーケティングの知識が増えるだけでなく、周りからマーケティング領域の人と見られるようになります。さらにITエンジニアとしてIT知識があるという強みを活かして、デジタルマーケティングの仕事を任せられる機会もあるでしょう。こうやって、少しずつ新しいキャリアにチャレンジできるようになります。
うらにある偏見
コミュニティ(場)によるラベリングの話をしましたが、言ってしまえば先入観です。先程のAさんの例でいえば、先入観だけでなく、さらに職種による偏見も含まれています。仮に私が本当にM&Aを専門に行っていたとしても、M&Aをやっているからというだけで会食で普通に会話すらしないというのは異常です。言うまでもなく、M&Aをやっている人にも、良い人もいれば悪い人もいるでしょう。
Wikipediaによれば、偏見とは、客観的な根拠なしに共通の特徴をもつモノに対する画一的な見方をすること、特定の集団や属するモノに対して画一的な感情を抱くことをいいます。先入観と偏見は密接な関係をもちます。
AさんがM&Aに過去にどのような経験があったのかはわかりません。何か嫌な経験があるのかもしれません。今回のケースでは、偏見が先にあり、偏見から先入観が生まれたのだと思います。せっかく、対面で会食をする機会があるのであれば、偏見を超えて、実際に会話をすることで人間性を見ることが大事なことです。
偏見は人を盲目にします。偏見は人やモノをネガティブにみるだけではありません。時に過大評価することもあります。人のキラキラした肩書に弱かったり、有名なブランドに異常に惹かれるなどです。ITならGoogleやAmazonが言うことであれば何でも価値があると感じることです。ものごとの本質ではなく表面的なところだけを見ることは危険です。
プライドと偏見という映画がありますが、偏見の更に奥にはプライドがあるのかもしれません。プライドを満たすために偏見という色眼鏡で世界を見てしまっている。自分を守るためのプライドと偏見の更に奥には不安があるようです。
熟考するということ
本人曰く、Aさんは会食までに何を会話するかを熟考していたようです。私は会食に臨んで何を会話するかを考えたこともありませんが、今回は会食が終わってから深く考えさせられました。
日頃から、人と会うときは出来るだけ自分をゼロにしてから会うようにしています。誰と会う場合でもそうです。人間として向き合って、会話して、それで何か通じ会える人とは長く付き合えるようです。ここ数年で相手によって話すことを変える人とは、どこか上手く行かないことも経験してきました。そういう人は相手によって狙いを変えているからなのでしょう。こちらが相手の狙いを叶えてあげれないとわかると、関係はそこで終わりです。
全く偏見や先入観なしに人と向き合える人は稀です。わたし自身も全くないかというと分かりません。ただ、人間に会うときには出来るだけ自分を無にして、ゼロの状態で向き合えるようにしたいと思います。昔は何か用意するのが礼儀かと思っていて、何も用意しないのは怠け者なのではないかと自問自答したこともありました。ただ、今ではゼロの状態で接することが、とても大事だったことがわかります。自分をゼロにして相手の話を無心に聞くことから得られる喜びや学びはかけがえのないものです。
もちろん、仕事での打ち合わせであれば別です。事前に入念なアジェンダや資料の用意は欠かせません。
会食が終わってからの熟考からは、とても多くのことを学びました。これも実際に人とあって体験したことだからだと思います。リモートではここまでの人との関わりは難しいですね。
コメント
コメント一覧 (1件)
この記事を読み
人間だけでなくものに対しても
先入観をもった見方というのは
同じようなことを感じるなと思いました。
文中に「相手がどういった人間なのかよりも」という言葉がありましたが、ものがどういったものなのかよりも、”映える”という、見た目のイメージだけで流行ることもある。このようなsns等が作り出す一つの社会的なものが、世の中の人にコミュニケーション上で与えているものがあるのかもしれないなと、個人的には感じました。
著者が言う無心で見て(聞いて)学び、楽しむ(喜ぶ)ことを、人と人のコミュニケーションだけでなく、ものに対しても、実際に触れてすることが大事だよなと思いました。
そして、リアルに肌で感じるって、やっぱり大事ですね!